つれづれ

「モノいう百姓」貫いた山下惣一さんをしのぶ

2022.12.28

農民作家として知られる「山下惣一さんを偲ぶ会」が12月18日、東京・日本教育会館で開かれ、100人を超す人が山下さんの歩んできた道を振り返り、農業のあり方について語り合った。
山下さんは1936年、佐賀県唐津市の農家の長男に生まれ、子ども時代から農作業を手伝わされた。高校に進学したかったが、「百姓を継がなくなるから」と父親に断念させられ、稲作やミカン栽培などに取り組んできた。農業が嫌いで2回家出を試みたりしたが青年団活動から社会に目を向けるようになり、31歳で書いた『嫁の一章』が佐賀県文学賞を受賞した。さらに1970年、減反政策に揺れる中で発表した『海鳴り』で第13回日本農民文学賞を受けた。以来『いま、村は大揺れ。』『減反神社』『ひこばえの歌』『村の本音 百姓のホンネ』『農のモノサシ』『小農救国論』など著書・共著は約60冊にも及び、偲ぶ会会場にもその多くが展示されていた。山下さんは日本各地の農家と交流する中で、近代化・大型化を目指す国の農政に疑問を抱き、それらの著作で小規模な環境保全型農業を提唱している。また、作家の井上ひさしさん(2010年死去)と親交を深め、井上さんが古里・山形県川西町で開講した「生活者大学校」の教頭を長く務めた(校長は井上さん)。15年に百姓仲間らと「小農学会」を立ち上げて共同代表となったほか、「日本に農産物を送っている国ではどんな農業をしているのだろう」とタイ、中国、ブラジルなど約35カ国の農村を訪れて交流、「アジア農民交流センター」(AFEC)を設立して研修生を日本に招いた。

亡くなったのは22年7月10日、86歳だった。地元・九州でのしのぶ会に続いての都内での「偲ぶ会」では、黙とうに続いて山形の農家でAFEC共同代表の菅野芳秀さんが「農を守ろうと闘い続ける限り、山下さんが忘れられることはない」とあいさつ。井上さんの妻、ユリさんは「生産者と消費者を分断しないようにと始めたのが生活者大学校。山下さんはひさしさんを『口先百姓』と呼び、ひさしさんはそう言われるのを喜んでいた」と振り返った。会場では山下さんが玄界灘を見下ろす斜面で育てたミカンが配られ、それは味が濃くさわやかだった。

『農のモノサシ』(創森社発行)に好きな一章がある(中略あり)。ふとした折に思い出す。

 稲の葉先の露の玉にはせつない思い出がある。
 もう、ずっと昔。私は都会に憧れて憧れて、家出の機会を狙っていた。その日も投げやりに一日あぜ草刈りをやって、座り込んでぼんやり田んぼを眺めていた。ふっとみると、そこここの稲の葉先に小さな水玉がのっかって夕陽に輝きつつかすかに揺れているのだ。
「へえー、露はどうやってできるのかな」
 私は田んぼに降りて、まだ葉先に露の玉をのせていない稲の葉を見つめた。しかし、眼をこらして凝視していても、露が生まれる瞬間はなかなか捉えられない。
 私は夢中になった。どうしても見届けないとこれから生きていけないような気分だった。そして、ついに露ができる瞬間を自分の眼で見たのである。稲の葉先から三センチぐらい下がった葉の表面がかすかにふくらむ。次の瞬間、そのふくらみは上へ登りながらだんだんと球形の水玉になり、アッという間に葉先にのっかって、かすかに揺らぐのだ。
 私は感動した。それを見届けた自分にではない。人が生まれ、死に、悩みしている間にも誰も知らないところでひっそりと繰り返されている自然の営みに心を洗われる思いだった。このことが私の転機になった。それ以降、私は村を出ようとは思わなくなった。